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デリュージョン・ストリート 14

夜が準備され、はじまりが……

 その夜、濃紺の夜空を背景に、金星と北極星の造りだす素晴らしい直線上に皓々と反り返った三日月が位置するのが見られた。冬のあまりに暗い路地に迷い込んでいた、ものを創るということが、ふたたび生じようとしていたために違いない。
 一九八八年一月二十三日、高い天井が抱く中空の不思議なアンバランスに支配された教会という聖遺物器の底で、福原は立つ。骨のはじまり、いや、塩そのもののはじまり。
 肉体は傾斜を生きていた、凍りついていた。しかし、傾くということはとどまることであるはずはない。とどまるようにみせて、明らかに重力という神託に向き直り、その源に匕首をつきつけているのだ。これは愛だ。あらゆることどもの無効を宣する超愛だ。
 この踊りはなまなかなものではない。それを心すべきだ。
 また、踊りであるとか踊りでないとか、その他、何ものであるとかないとかとはもう無縁のところにきてしまったのかもしれない。我々は、そのような場面に立ち会ってしまったのかもしれない。
 福原は眼の(うから) でもあるので、足を、腰を踊りながらも、右手を空間の距離を越えて差しのべ、時間というお喋りを黙らせてしまうような炯々たる双眸でこちらの向こうを見据えたきり、何ものかに踏み込む際の姿勢の傾きをゆるがせることもなく、永遠の、静かな戦いをつづけるのだった。
 そしてそれは囚われた何ものかの部分に辿りつくなどということではなく、かの人が生き死にをかけて突っ立つことを身を以て示した、ものを創り出すことの激しい自由、激しい苦しみ、激しい暗黒、激しい光の真っ只中に向かっていくということなのである。

(初出 福原哲郎パンフレット、1988)




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